ヒマラヤ山脈

世界の恋愛事情02:彼女が山に登る理由 in ネパール

ヒマラヤ山脈

エマ、29歳

「私今度、ヒマラヤ山脈のトレッキングに挑戦することにしたの。最高標高5,400mもあるから、正直ちょっと怖いんだけどね」

母親にこっそり秘密を打ち明ける少女みたいな笑顔でそう話した彼女は、アムステルダムの郊外に住むエマ、29歳。彼女は2018年の初夏、ヒマラヤ山脈に属するアンナプルナ山群のサーキット(一周)・トレッキングに挑戦した。

「アンナプルナ・サーキット・トレッキング」は登山界では有名かつトレッカー達の憧れのコースの1つで、約10日〜25日間かけて総距離約210km、最高標高5,416mのアンナプラナ山郡をぐるりと一周するコースのこと。何か1つの山を登ることが目的ではなく、自然や山間にある小さな村々の中をひたすら歩くこと、そして道中に現れる6,000 ~ 8,000m級のヒマラヤ山脈の壮大な山々の景色を楽しむことが主な目的のトレッキングとなっている。

「登山」ではないとはいえ、最高標高は日本一高い富士山(最高地点約3,700m)より1,700m以上も高い。そして平均2週間にも渡って、毎日何時間とひたすら歩き続きける。アンナプラナ・サーキット・トレッキングに挑むには、それなりの登山経験が必要なのは素人目から見ても明らか。それなりに色んな山に登ってきたエマでも「ちょっと怖い」と思うのも頷ける。

7年の穏やかな恋の末に結婚したふたり

エマがヒマラヤ山脈のトレッキングに挑戦しようと思った最大の理由は、最愛の夫との離婚。

エマが20歳の頃に彼と出会い、7年間もの交際を経て、エマが27歳の時にふたりは結婚した。出会った頃からずっと、エマは変わらず彼のことをとにかく信じ、尊敬し、愛していた。

当時エマが地元から離れてロンドンに住んでいたのも、彼の希望を尊重しての決断だった。地元の小さな街から出て、色んなチャンスに溢れたロンドンで新しいキャリアを築きたいという彼の思い。エマは地元で勤めていた会社に事情を相談し、幸いにもロンドン支社への移動を実現することができた。一方彼はロンドンでイチから仕事を探す必要があったため、しばらく地元に残って当時抱えている仕事を終わらせる必要があった。エマは彼より一足早くロンドン入りし、ふたりで住む家を探すなど、夫を迎えるための環境を整えていた。

「私たちまだ若いから、子どもはもう少し先でも良いかなって話してるの。今は、ロンドンでの新しい生活でふたりがどう成長していくかが楽しみ」

彼のことを話すエマの顔からは、いつも幸せがにじみ出ていた。

信じていた夫の突然の浮気、そして離婚

恋人期間から数えて9年間連れ添い、誰から見てもお似合いだったふたりは、2017年の年末、離婚に向けて話し合いを進めていた。理由は、あんなに信じきっていた彼のまさかの浮気。エマがロンドンに移ってしばらくした後、彼は「運命の人に出会ってしまった」と突然告げたと言う。

エマの彼は、地元で最後の仕事を片付けている最中にその運命の人という女と出会った。その出会いに文字通り「稲妻のような衝撃」を受けた彼の恋心は猛烈に燃え上がり、彼はその恋になりふり構わず夢中になった。ふたりの関係は1カ月も経たないうちに急速に進展し、9年間連れ添った妻との離婚を、いともあっさり彼に決断させた。

「運命の人に出会ってしまった。もう、エマとは一緒にいられない」

そう告げられたとき、エマは一瞬彼が何を話しているのか分からなかったという。けれども1週間、2週間と時が経つにつれて「別れ」が少しずつ真実味を帯びてくると、エマは移動したばかりのロンドン支社から地元に戻ることに決めた。ロンドンに居続ける理由が、エマにはもうないのだから。勤めていた会社がとても親身的で、エマの状況に深い理解を示してくれたことがせめてもの救いだった。

悲しみの浄化を、山に求めたエマ

地元に戻ってから約3カ月。エマは一人で住む新しい部屋を探し、大体の時間を一人で過ごしていた。彼のことを思い出させるものには、何にも関わりたくなかった。親といても、友だちといても、頭をよぎるのは「彼も一緒に過ごした思い出」ばかりだった。この9年間、エマの隣にはずっと彼がいた。彼のいない思い出を辿ることは、ほぼ不可能だった。そんな彼との思い出が、エマを余計に孤独にした。

地元に戻ってから3カ月の間、エマはやり場のない思いを抱え続けていた。「浮気は彼のほんの出来心で、信じて待ち続けていればまた戻ってくるかもしれない」そんな希望を胸に秘めていたけれど、彼が戻ってくる気配は一向にない。それどころか、浮気相手との関係はどんどん深まっている様子だった。

エマと彼は離婚に向けての話し合いという名目で、ちょこちょこ会っていた。ただその度に「彼はもう戻ってこない」という事実を認めざるをえなかったエマは、悲しみを深めるばかりだった。だけども時が経つにつれて、「諦め」の感情が芽生えてくることも感じた。ダメなものは、何をしてもダメなのだ、と言い聞かせる自分の存在も感じるようになっていた。

それでもエマは、別れの悲しみからなかなか抜け出すことができなかった。彼の浮気、離婚、ダメなものはダメ。ふたりの関係が元に戻ることはないし、この出来事を一緒に乗り越えて強固なものになることもない。頭ではそう理解しているけれど、感情の整理が全然追いつかない。

そんなエマが行動を起こしたのは、2018年の春。約3カ月の「沈黙」の期間を経たエマは、15日間のヒマラヤ山脈トレッキングに挑戦することを決断した。そう、冒頭でふれた、距離約210km、最高標高約5,400mのアンナプルナ・サーキット・トレッキングへの参加。

心に居座り続けるモヤモヤを断ち切るために、エマは「一人でアンナプルナ・サーキット・トレッキングへ参加する」という、強硬手段を取ることにした。

新しい人生のページを開くために

エマは、アンナプルナ・サーキット・トレッキングに参加する理由について、あまり多くを語らなかった。

「“今”、登る必要があると思うの」

にこっと笑って、そう答えるだけだった。だから、誰一人知らない場所でただただひたすら歩き続ける中、エマが何を思い、どんな感情と向き合ってきたかは正直分からない。

ただアンナプルナ・サーキット・トレッキングについて調べていた時、偶然エマと同じようなコースを辿った日本人女性の、こんな記録を目にした。

初めてのヒマラヤ山脈、6000mを超える山々との出会いは、確実に私の中の何かをスイッチオン。
今まで時間がないと言い訳してきたコトがアタマの中でいっぱいになり、一つ一つと対峙する時間をくれました。
聖域をリスペクトして、生きよう。
自分で何でもできるはずはない。
でも高みを目指して、生きよう。
小さな私が出来る、小さなコトは確かにある。
もっと見付けて、やってみよう。続けていこう。
そして小さな幸せを重ねていこう。
振り返った時に笑顔になれる、そんな人生を送りたい。
いや、送ると自分に約束しよう!
(出典:アンナプルナサーキット(11日間)へ! トロンパスを越えてきました!

エマがこの女性と同じようなことを思ったかどうかは分からない。ただ、サーキット・トレッキングを終えた後、「完歩」というひと言だけを添えてFacebookに投稿した1枚の写真に写るエマは、ここ数カ月間のエマとはまるで別人のように優しい笑顔を浮かべ、自身に満ちた女性の表情をしていた。このトレッキングを通して、エマが一人の人間として、女性として進化したことは誰の目から見ても明らかだった。

エマは、自分の悲しみを誰にもぶつけることはしなかった。その代わりただただひたすら自分と向き合い続け、歩き続け、遂には2週間にも及ぶヒマラヤ山脈のトレッキングをやり遂げた。

あの時のエマは、新しい人生のページを開くために、このトレッキングをやり遂げたのかもしれない。

ヒマラヤ山脈のトレッキングからしばらく経った今、エマの隣には、エマを優しく見つめて微笑む素敵な男性がいる。

それはまた、別の話。

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