【ダリ劇場美術館@フィゲラス】見逃せない展示作品10選 〜詳細解説付き〜
バルセロナから電車で約1時間〜2時間ほどの所にある「フィゲラス(Figueres)」は、20世紀を代表する芸術家ダリが生まれ育った場所。そこには、ダリ自身がデザインを手掛けた「ダリ劇場美術館」が異様なオーラを放ちながらどどんと鎮座している。足を踏み入れた途端、摩訶不思議な「ダリ劇場」が幕を開ける大人気のスポットにおいて、見逃せないダリの傑作10作品を詳細解説付きでご紹介。
この記事/ページの目次
天才・奇人・変人?サルバドール・ダリってどんな人?
ダリ劇場美術館に関する紹介を始める前に、まずはダリという芸術家がどんな人であったのかを紹介したい。ダリを知ることで、彼が生み出す作品の数々も違った視点で見えてくるかもしれない。
エンタメ性抜群!?数々の伝説を持つダリ
「ダリ」と聞いて頭に浮かべるイメージといえば、「自称・天才」、「奇抜な発想」、「奇行の数々」、「変人」などなど、常軌を逸した人物像を思い描く人も多いはず。確かに、ダリにまつわる奇想天外な伝説は数知れない。
- 潜水服に身を包んで講演会に登壇した良いものの、思うように息ができずに死にかけた(当時29歳)
- 「リーゼントヘア」と称して、フランスパンを頭に括りつけてマスコミの前に出現
- 本物の象に乗って凱旋門を訪問
などなど、そのエンターテイメント(?)に溢れるダリの行動は、芸術作品以外の分野でも多くのマスコミや視聴者の注目を浴びていた。現代でいうと、過激なパフォーマンスやファッションで多くの人の度肝を抜いていたアメリカの歌手レディ・ガガのような感じかもしれない。
またダリのトレードマークである「ピンと跳ね上がったカイゼル髭」は、嘘か誠か、水あめを使ってその形をキープしていたのだとか。奇行以外にも、ダリは様々な伝説を持っている。学生時代(19歳の頃)には過激な行動によって学校から退学処分を受けたり、20代の頃から所属していた「シュルレアリスト・グループ」からは、ファシスト的思考を理由に追放されてしまうなど、様々な場面で対立を繰り返してきた。
奇行は本性の裏返し?ダリは本当はとっても真面目?
かつてダリは、こんな言葉を口にしている。
「真の画家は、空っぽの砂漠の真ん中に並外れに素晴らしいシーンを描くことができる人。真の画家は、激動の時代の中でも辛抱強く1つの梨を描くことができる人のことである。」
この言葉を聞くと何だか、奇人、変人と揶揄されるダリではなく、幼少期から真摯に画家としての腕を磨き続けた、真面目な、アートに情熱を捧げる一人の芸術家の姿が目に浮かぶ。数々の奇想天外な行動や奇抜なアートは、長年培ってようやく確立した芸術家という職業にプライドを持ちながら、「唯一無二の芸術家」としての理想の姿を常に追い求めていた結果のようにすら感じる。
幼少期からの真面目な努力と、ダリにしかない「天性のセンス」によってあの摩訶不思議なダリワールドが創り上げられているのかと思うと、より一層ダリの非凡さを感じずにはいられないはず。
ダリを語るのに欠かせない、ダリの永遠のミューズ:ガーラ
1929年・ダリ25歳の夏、彼は生涯のミューズとなる女性・ガーラと運命の出会いを果たす。ダリの地元・フィゲラスから近いカダケス(Cadaqués)という海に面するリゾート地で夏の休暇を過ごしていたダリは、そこに招待した友人を介して、当時エリュアールという詩人と結婚をしていたロシア帝国(現・タタールスタン共和国)出身で10歳年上の女性、ガーラ(当時35歳)と出会う。
ダリは後にガーラとの出会いを「彼女は私のグラディバ(※)であることを運命づけられていた」と語っており、ダリの衝撃的な一目惚れから始まったふたりの関係は、その夏以降、生涯に渡って続くことになる。
※「グラディバ(Gradiva)」とはウィリアム・ジェンセン(W. Jensen)というドイツ出身の小説家が書いた小説に登場する女性の名前。グラディバは物語のヒロインで、主人公に心理的な治癒をもたらした女性として描かれている。
数々の芸術家を魅了した女性・ガーラ
「夏の休暇中に運命の出会いを果たしたふたり」と聞くと何ともロマンチックな響きだけれども、真実はそうでもない。ガーラは数々の芸術家たちを魅了し続けてきた女性で、「魔性の女」とも呼ばれている。
ダリ以外の多くの著名な芸術家たちとも積極的に関係を持っていた男に奔放なガーラだったわけだけれども、「カンダウリズム」という「自分の妻の裸体を第三者に晒したり、妻が他人と性行為を行っている様子を見て興奮する性的嗜好」があったと言われているダリは、ガーラのその奔放さに辟易することもなかったのだとか。
つまり、たくさんの男と楽しみたいガーラと、その様子を見て性的興奮を得るダリとで、お互いのニーズにフィットしていたということ(!)。
ちなみに、ダリもダリで61歳の頃から40歳年下のリアという女性との関係をガーラ公認のもとで始めており、リアを連れて数々の公のイベントに顔を出している。リアは後に、ダリの第2のミューズと呼ばれるようになる。
ガーラに惚れ込んでしまってしょうがなかったダリ
それでも、ダリにとってガーラが唯一無二の女性であることは生涯に渡って変わることはなかった。ガーラと出会って以降、ダリの数多くの作品にガーラが登場している。とにかくガーラのことが好きで好きでたまらなかったダリは、62歳の頃(ガーラ72歳の頃)、何とガーラのためにプボル城(Púbol Castle)というお城をまるまる買い取り、自ら装飾してプレゼントしてしまったほど(!)。
さらにこのプボル城は「ガーラのためのお城」だったので、ガーラがこの城で夏の休暇を過ごしている間、ダリは事前の許可なくガーラを訪れることが許されないというルール付き。ダリと離れてこのプボル城で夏を楽しんでいる間も、ガーラは多くの芸術家たちとの関係を楽しんでいたのだとか。「事前アポなしの訪問NG」という条件がついてもなお、ダリのガーラに対する愛情は絶えることはなかったという。
ガーラはダリのプロデューサーとしての手腕も発揮した
男に自由な一方で、ガーラはプロデュース力にも長けていた女性で、ダリの作品をアメリカで売り出すことを考案したのはガーラなのだか。アメリカで一躍人気者となったダリは、アメリカに売れた作品の報酬によって巨額の富を得ている(後に「ドルの亡者」とあだ名をつけられてしまったほど)。
また冒頭で紹介したようなダリの奇抜な行動の数々は、全てガーラが指示したものとも言われており、もしもそれが真実だとしたら、ガーラがいかに敏腕なプロデューサーであったかが計り知れる。私たちがイメージするダリは、すべてガーラによって作り上げられた人物である可能性だって否定できない。そう考えると、ガーラがダリにとって欠かせない女性であったことにも頷ける。
ガーラの死とともに、創造意欲も失ったダリ
互いに別々の相手との関係を持ちながらも、ダリとガーラが心身ともに深く繋がり合っていたことはもうお分かりの通り。実際にダリは「ガーラがいてこそのダリだ」と公に発言しており、ダリがダリであり続けるためにガーラの存在は欠かせないものだったと公言している。
実際にガーラが亡くなった後のダリは「人生の舵を失った」という発言とともに芸術への情熱をなくし、ガーラを失った翌年から一切の芸術活動をやめてしまっている。
ガーラが亡くなったのは1982年、88歳でその生涯の幕を閉じた。ガーラの棺はダリがプレゼントしたプボル城に保管されており、彼女は今もそこで眠り続けている。ちなみにこのプボル城は1996年より「ガーラ・ダリ・キャッスル・ハウス・ミュージアム(Gala-Dalí Castle House Museum)」として一般公開されている。
一方78歳でミューズを失ってしまったダリは、その後しばらくプボル城に住み続けたものの、ある時起こった(一説ではガーラを失って悲しみにくれるダリが自殺をはかったとも言われている)火事によってひどい火傷を負い、それをきっかけに友人やアーティスト仲間らによって地元のフィゲラスへ連れ戻され、ダリ劇場美術館の近くで晩年を過ごす。
1989年1月23日の朝、自宅(ダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔)で心不全を起こして亡くなった。ガーラを失くしてから6年後、ダリ84歳のことだった。そしてダリが眠る棺は現在、これから紹介するダリ劇場美術館の地下に保管されている。
ダリ劇場美術館:劇場跡地に建設された美術館
さて、ここからが本題のダリ劇場美術館。この美術館は、1974年、ダリが70歳の時に誕生したもの。この美術館がある場所は、元々はフィゲラスの市民劇場があった場所。ちなみにこのフィゲラス市民劇場は、1936〜1939年に起こったスペイン市民戦争によって破壊されている。破壊から約20年経った1960年代、ダリが自らの「劇場」をこの市民劇場跡地に建てる動きが始まった。
ダリはこのフィゲラスの市民劇場跡地に個人的な繋がりを強く感じており、ここに自らの美術館を建てると決めた理由を、以下のように3つ述べている。
- 1つ:ダリ自身が「劇場的な(演劇的な)」芸術家であること
- 2つ:ダリが「洗礼式」を行なった教会がすぐ隣にあること
- 3つ:ダリが初めての個展を開いた場所が劇場のロビーだったこと
これら3つの理由から、ダリはこのフィゲラス市民劇場跡地が自身の美術館として最適な場所だと確信。さらにダリは、美術館の建設にあたって以下のようなことを発言している。
「私はこの美術館を素晴らしいシュールレアリスムの1つのオブジェクトとしたい。そしてそれは完全に「劇場的」な美術館になる。この場所を訪れた人々は、劇的(ドラマチック)な夢を見たような感覚を抱きながら去っていくだろう。そしてダリ劇場博物館は、サルバドール・ダリの傑作として記憶される建物となるべきだ。」
この発言からも汲みとれる通り、ダリは美術館の建設にとても熱心に取り組んだ。館内ではダリが芸術家として活動を始めた初期の頃の作品から晩年に至るまでの多岐に渡る芸術品を展示しているほか、美術館の細部に渡るまで全てをダリ自身がデザインした。また、ダリ自身が愛好していた芸術品のプライベートコレクションも公開されている。つまりこのダリ劇場美術館は、ダリの芸術家としての生涯が詰まった、大規模な「作品の一つ」となっている。
シュールレアリスムって何?どんな芸術?
ダリは「シュールレアリスムを代表する偉大な芸術家」として紹介されており、自身もこのダリ劇場美術館を「シュールレアリスムの1つのオブジェクトとしたい」と発言していたけれども、そもそも「シュールレアリスム」って何だ?と思う人も多いはず。私自身もダリについて知るまでこのシュールレアリスムという言葉の意味を全く理解していなかった。
シュールレアリスムは日本語で「超現実主義」と訳されているけれども、簡単にいうと、「現実ではありえない世界」を表現するアート。その現実ではありえない世界を表現する手法は大きく分けて2つある。
シュールレアリスムの手法1:抽象的な表現
自意識が介在できない状況下で「無意識の世界」を偶発的に表現しようとする実験的なアートで、作品はシンボル的な記号や抽象的なラインなどで描かれることが多い。作品内に判別しやすい具体的な個体(アイテム)が存在しないため、アートに関する知識がない私のような人にとっては、「難解」な作品が多い。スペイン(バルセロナ)出身で、ダリと並んで偉大なシュールレアリストと評価されている芸術家の一人、ジョアン・ミロはこのタイプに属する。
シュールレアリスムの手法2:写実的な表現
「夢の中(無意識下)でしか起こり得ない世界」を表現しようとするアートで、現実ではありえない物事の奇妙な組み合わせなどが「写実的」に描かれていることが多い。見るものに強い混乱を与えつつも、作品内に登場する個体(人物や風景)は具象的で判別しやすいため、アートに馴染みがない人にとっては親しみやすい。ダリは、この写実的な表現を行うシュールレアリストだった。
さて、ダリとシュールレアリスムについて理解した上で、ようやく「ダリ劇場博物館」の内部について紹介していきたいと思う。
ダリワールド全開!圧倒的な存在感を放つ「ダリ劇場美術館」の外観
ダリ劇場美術館は、その外観から訪問者を圧倒する。目が覚めるようなピンクの壁には、規則的に並べられたクロワッサン。上部にはダリが好んで使っていたモチーフの一つである卵のオブジェが鎮座。卵はダリにとって「母親の胎内」を連想させるもので、すなわち「完璧さ」や「誕生」の象徴として作品に取り入れていたモチーフ。
正面に回ると、ダリ自身がマスコミを騒がせた「フランスパン≒リーゼント事件」以降ダリのトレードマークともなっているフランスパンを頭に乗せたオブジェクト達。加えて、ダリが登壇中に死にかけたというエピソードを持つ潜水服を再現したオブジェも。
そしておでこにテレビ、瞳が赤ちゃんの顔をした男性という何ともダリらしい作品もあり、その奇抜な外観からダリ流の「熱烈な歓迎」を受けているような気持ちにさせてくれる。
ダリ劇場美術館の見どころ10選
ダリ劇場美術館は全部で22の部屋から構成されており、大きく2つのエリアに分けられている。
- 部屋1〜18:ユニークなアートオブジェクトを楽しむエリア。ダリ自身の基準によってデザインされたもの。それぞれの部屋が、美術館を1つの大きな作品として仕上げる重要な要素としても機能している。
- 部屋19〜22:劇場美術館の「進化」を楽しむエリア。かつての市民劇場を漸進的に拡張した結果形成されたとされる部屋の複合体。
展示されている作品は主にダリの作品(絵、絵画、彫刻、セッティングなど)となっているけれど、他のアーティストの作品を展示している部屋も(Antoni Pitxotの作品:部屋12、Evarist Vallesの作品:部屋8など)。また部屋14は、ダリのプライベートコレクションを展示しているコーナーとなる。
どちらのエリアも甲乙つけがたく興味深いことに間違いないのだけれども、個人的には1〜18までのエリアに展示されている作品のほうがより親しみやすい印象。ちなみに館内は1〜22と順番に巡っていく順路となっている。
以下は、ダリ劇場美術館で見逃せない作品を10個ピックアップ。絵画や作品に関しては、4番目以降は、ダリが実際に制作を行った年代順にご紹介。
1.館内に入ってすぐの所にある中庭
館内に入ってすぐに目に飛び込んでくるのが、半円状になった中庭。中心にはミニ・クーパーのような車がおかれ、そこから伸びる柱の先には水滴を垂らしている船が掲げられている。
そしてこの車の運転席には男性ドライバーが座っており、近くにある機械に1ユーロを入れると、車内に雨が降るというなんともユニークな仕掛けも。
2.劇場美術館内で一番大きな巨大絵画
続いて目に入ってくるのが、館内で一番大きいと思われる超巨大絵画。絵の下に座っている人の大きさと比べると、この絵がいかに大きいかが想像できるはず。さらにこの絵画が飾られている部屋は四方に作品が飾られており、中央に立つと以下で紹介するモザイク画も見ることができる。
3.見る角度によって姿を変えるエイブラハム・リンカーンのモザイク肖像画
このモザイク画は遠くから見ると第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカーンの肖像画となっているけれども、近付いて見てみると「地中海に昇る太陽を眺める女性」の絵に姿を変える。ちなみにこの女性はもちろん、ダリのミューズ・ガーラ。
4.ラムチョップを肩に乗せたガーラの肖像画(1934年・ダリ30歳)
ダリの生まれ故郷フィゲラスからほど近い場所にある小さな村、ポルト・リガロ。ダリとガーラが晩年を過ごした場所として知られており、そこには「卵の家」と名付けられたふたりが住んでいた家も残っている。そんなポルト・リガロに移り住んですぐにダリが描いたのが、この食べかけのラムチョップ(骨つきの子羊の肉)を肩に乗せたガーラの肖像画(Portrait of Gala with Two Lamb Chops in Equilibrium upon Her Shoulder)。
ガーラの肩に乗せた生のラムチョップについてダリの説明
ダリはこのラムチョップについて、こんなことを話している。
「私は彼女を食べる代わりに、このラムチョップを食べることにしたんだ。この生のラムチョップは、ウィリアム・テルの林檎(※1)やアブラハムの雄羊(※2)と同じように、償いに伴う犠牲という意味合いを持っている。」
さて、ダリが言うウィリアム・テルやアブラハムの雄羊というキーワードを聞いて、すぐにピンとくるだろうか。私はここなかったので、以下に補足として紹介しておきたい。
ウィリアム・テルの林檎(※1)
ウィリアム・テルはスイスの伝説の英雄。日本を含む世界中で「弓の名手」として知られている。かつてウィリアム・テルは、権力者に対する無礼を理由に「息子の頭の上に置いた林檎を弓矢で撃ち抜くか、死刑を受けるか」という選択を突きつけられた。そして彼は見事息子の頭の上の林檎を弓で射止め、死刑を免れたという話が有名。
ダリの絵に登場する生のラムチョップとの関連性は「自らが死ぬ又は息子を殺すことなく林檎を撃ち抜いた(=林檎を犠牲にした)」という点にある。
※2:アブラハムの雄羊
アブラハムはイスラム教、キリスト教、ユダヤ教という世界中で信仰されている多くの宗教に影響を与えた人物として崇められており、「神の唯一の友」「信仰の父」などとして知られている。「イサクの燔祭(はんさい)」という逸話が有名で、それは長年の不妊の末にようやく授かったアブラハムの最初の息子・イサクを、神への捧げ物として献上しなければいけなかったという話。
神への信仰心の深さを示すため、アブラハムは愛する息子イサクを縄で縛り上げて祭壇に乗せ、その命を奪おうと刃物を振りかざしたその瞬間……空から天使(神の使い)が舞い降りてきて、アブラハムの行動を阻止。アブラハムの傍らには雄羊の姿があり、息子イサクの代わりにその雄羊を献上することで事なきを得た、という結末。
ダリの絵に登場する生のラムチョップとの関連性は「自らの息子を殺すことなく雄羊を献上した(=雄羊を犠牲にした)」という点にある。
これら2つのエピソードをイメージして描いたのが、ガーラの肩に乗せた生のラムチョップという訳。この生のラムチョップを食べることで、ガーラを食べてしまいたい気持ちを消化するといったニュアンスなのだと思う。
5.セックスアピールの亡霊(1934年・ダリ30歳)
別名リビドー(性的衝動)の亡霊とも呼ばれるこの「セックスアピールの亡霊(The Spectre of Sex-Appeal)」は、縦18cm×横14cmのものすごく小さな紙に精密な絵が描かれた傑作。ダリ劇場美術館の中でも注目作品の一つで、ダリ作品の中でも傑作と呼ばれるものに分類されている。
巨大な亡霊の前に立つダリ少年
ただでさえ小さなキャンパスにさらに小さく描かれている右手前の少年は、幼少時代のダリ自身で、本人によると6歳の自分なのだとか。水兵の服装をし、左手にはフープ、右手には骨と化した男性のペニスのようなものを持っている。そして幼いダリ少年が見上げているのは、自分の背丈の何倍もある巨大な「セックスアピールの亡霊」。
寝具で出来上がった亡霊
亡霊の首から繋がって背景に広がる岩と海は、ダリが幼少期の頃に見ていたカダケスのクレウス岬(Cap de Creus)の岩、というシーンになっている。硬さと柔らかさを同時に持ち合わせている巨大な亡霊の中心部には2つの枕が置かれ、細長いラグで巻いて固定されている。
これは、性行為を行う「寝室のベッド(寝具)」をイメージしていると言われている。また腐敗していく体は「共食い(カニバリズム)」によって起こされたものとされていて、ここでも、共食い=性行為というニュアンスを含んでいることが想像できる。そして共食いによって腐敗していく体を支えているのは、ダリの作品に頻繁に登場するモチーフの1つ、松葉杖。
「性的コンプレックス」と「死」を匂わせる松葉杖
この後の「ダリの自画像画」の部分で詳しく紹介するけれども、ダリの作品の中で松葉杖は「死と復活」、「性的コンプレックス」の2つの意味を持っていると言われており、この絵の中でも、性行為によって腐敗していく体(=死)、性に関して未熟な少年(=性的コンプレックス)を象徴するようなアイテムとして登場しているように見えることが興味深い。
6.メイ・ウエストの部屋(1937年・ダリ33歳)
メイ・ウエスト(Mae West)は、ニューヨーク州ブルックリン生まれのアメリカ人女優。1920年〜1930年代にはアメリカの「セックス・シンボル」と称され、肉感たっぷりの豊満ボディと性に関する過激な発言で多くの視聴者(言うまでもなく男性)を虜にした。
ダリを含む多くの男性のセックス・シンボルとなったメイ・ウエスト
アメリカ人女優であるメイ・ウエスト。1933年に初主演を果たした映画『わたしは別よ(She Done Him Wrong)』の中で口にした、
「そのポケットに入っているのはピストル?それとも私を見て喜んでるの?(Is That a Gun in Your Pocket, or Are You Just Glad to See Me?)」
というセリフがあまりに有名で、世間をざわつかせた一件として映画史の記録に残っている。
プライベートでも映画の人物を地でいくような人柄で、「メイ・ウエスト=スキャンダルな女」というイメージで人々に記憶されていた女性。そしてダリのミューズであるガーラ同様、男に奔放で色気が溢れて止まらないメイ・ウエストは、20世紀を代表する芸術家・ダリをも骨抜きにした。
メイ・ウエストの部屋の始まりは1枚の水彩画
メイ・ウエストに夢中だったダリは、1934年から1935年にかけて「メイ・ウエストの顔のシュールレアル・アパート(部屋全体がメイ・ウエストの顔の各パーツで装飾されたアパート)」という水彩画を描き、1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」に出展。
その展示会にたまたま訪れていた有名アートコレクターのエドワード・ジェイムズという男性が、このメイ・ウエストの顔をアパートにした絵をとても気に入り、自らの豪邸に実際にこの部屋を作るようダリに依頼。ダリはそれを了承し、同年エドワード・ジェイムズの家に住み込んでこのメイ・ウエストの顔の部屋の制作に取り組んだ。
裕福なコレクターの家で現実化したメイ・ウエストの部屋
こうして、「メイ・ウエストの顔のシュールレアル・アパート」は、裕福なコレクター、エドワード・ジェイムズの家で現実のものとなった。特に有名な家具「メイの唇のソファ」に関して、ダリはオリジナル作品を5点作ったそうなのだけど、その全てをエドワード・ジェイムズが買い取ったと言われている。
ということで、このダリ劇場美術館に展示されている「メイ・ウエストの顔のシュールレアル・アパート」は、ダリが手がけたエドワード・ジェイムズの実際の部屋を再現したレプリカ展示となっている。
7.ダリの自画像 「焼いたベーコンのある柔らかい自画像」(1941年・ダリ37歳)
ダリ自身を描いた「焼いたベーコンのある柔らかい自画像」。今にもすべて溶け消えてしまいそうなほどぐにゃぐにゃになった自身の顔を、いくつかの松葉杖で支えている。ダリ自身はこの作品を「反心理学的な自画像」と呼んでいる。
ミケランジェロからインスパイアを受けた自画像
ぐにゃぐにゃの柔らかい姿は、ローマ(バチカン市国)・バチカン美術館の目玉ともいえる、ミケランジェロが手がけたシスティーナ礼拝堂のフレスコ画『最後の審判』内に描かれたミケランジェロ自身の「生皮の自画像」からインスパイアを受けたものだそう。
ダリは「いつの時代も私たち自身を首尾一貫して代表するものは、精神や活力などではなく、皮膚だ」と主張して、この皮のような自画像を描いたんだとか。ゆえに「反心理学的な自画像」と呼んでいる。
ダリの横に添えられたグリルベーコン
「SOFT SELF PORTRATE」と刻まれた台座の上に置かれているのは、グリルベーコン。これは生き物を象徴するものであると同時に、1934年から約50年間にも渡る毎冬に滞在していた、ニューヨークのセントレジスホテル(Saint Regis Hotel)でのダリの定番の朝食。
ちなみにセントレジスホテルの1610号室が、ダリのアトリエ兼自宅として利用されていた部屋。焼く前は柔らかいベーコンが、焼くとカチカチになることから、ここでも「生身の存在」と「崩壊」を表現。隣で溶けていくダリの顔と通じるものがある。
松葉杖が意味するのは「死」と「性的コンプレックス」
今にも溶け消えそうなダリを支えている複数の「松葉杖」は、先述の通り、ダリが好んで使用していたモチーフの一つ。ダリは生涯にわたってこの松葉杖のモチーフを作品に取り込んでいたのだけれども、時代によって松葉杖が持つ意味は異なってくると言われている。1936年頃まで(ダリ32歳)まではその多くが「父親へのコンプレックス」と「死と復活」を象徴するものと言われており、以降は「性」の象徴として登場することが多くなっている。
1941年に描かれたこの自画像で使用されている松葉杖には「死と復活」、「性的コンプレックス」の2つの意味があると言われており、「腐敗していく自分」と「性不全な自分」を描いているという説が有力とされている。
兄が落とした影で自分を見失っていたダリ
「腐敗していく自分」を描いた背景には、ダリが生まれる前に亡くなった兄に強い関係があると言われている。ダリが生まれる9カ月前、ダリの実兄で同じくダリという名前の男の子は、2歳足らず(22カ月)で感染性胃腸炎によって亡くなっている。そのことをひどく悲しんだダリの両親は、長男の死の9カ月後に生まれたダリを兄の生まれ変わりのように育てた。
長男と同じ「ダリ」という名前をつけ、亡くなった長男を求めるようにダリを愛したという。そしてなんとその両親は、ダリが5歳の頃に兄のお墓へ連れて行き「あなたはこの子の生まれ変わりなんだよ」と告げたのだとか。幼少期のダリはその両親の言葉を信じ続け、のちに「私は生を生きる前に死を生きていた(死んだ兄の人生を生きていた)」と話している。これが、今にも消え溶けてしまいそうなダリを支える松葉杖が「死と復活」を意味すると言われている理由。
ダリは勃起不全の問題を抱えていた?
そしてもう一つの「性的コンプレックス」に関しては、ダリが松葉杖の形状を男性器に見立てていることに関係している。かつてパリにいた頃、乱交パーティに頻繁に参加していたというダリは、その乱交の場で多くの勃起不全の男性を目の当たりにして衝撃を受けたという。そしてその柔らかく垂れ下がる男性器を支えるものとして「松葉杖」をフューチャーするようになった。
かくいうダリ自身も、性的コンプレックスを抱えていた一人と言われており、この自画像に描かれている松葉杖には、「性的コンプレックスを抱える自分を支えるためのモチーフ」という意味も込められているという説もある。
8.アメリカの詩(1943年・ダリ39歳)
1940年、ダリは第二次世界大戦の戦禍を避けるために、ガーラとともにアメリカに避難。戦争が終焉するまでの間をアメリカで暮らした。1943年に制作された『アメリカの詩』は、当時アメリカで起こっていたアフリカ系の人々(特に黒人)に対する人種差別がテーマになっている。
精力を失った男性器と、涙に濡れるアフリカ
背景にはダリの故郷フィゲラスの近くにあるカダケスの海とアメリカの広大な砂漠が融合して広がり、中央の時計台にはアフリカ大陸とうなだれる男性器の2つをイメージした皮膚のような形状をしたものが悲しげに掛けられ、涙のようなものを流している。これは、当時のアメリカにおけるアフリカ系の人々の厳しい状況を「泣いているアフリカ」を用いて表現しているのだそう。
白人とアメリカに繋がれたアフリカ系黒人
絵の中に大きく描かれた中心人物はふたりともアフリカ出身の黒人で、その体は「白人」と「アメリカ国旗背景にある白地」をイメージした白い布でつながれている。
アメリカ国旗の白以外の色、青と赤の服を身にまとっている右の男性の胸からはアメリカを象徴するコカ・コーラのボトルが吊るされ、そこから「黒い血」が流れ落ち、白い布の上に大きな黒いシミを作っている様子が描かれている。
この状況は、「青と赤の服をまといながら(同じようにアメリカに住みながら)も、流れるのは黒い血だけである」という当時のアメリカでの人種問題を揶揄していると言われている。本来であれば赤の血も青の血も同様に白い布の上に流れ落ちるべきなのに、流れているのは黒い血だけだというダリからのメッセージが込められている。
アメリカ系白人とその他の注目ポイント
ちなみに左側に小さく描かれている男性二人は「アメリカ先住民系」のスポーツ選手をイメージしたものとされており、特に何かの苦労を抱えているようには見えない。
そしてこの絵で特筆すべきもう一つの点は、美術史上初めて、「コカ・コーラ」が絵画の中に描かれた作品であるということ。その後の宣伝広告業にもつながるを牽引することになったという意味でも、先駆的な作品として評価されている。
9.ピカソの肖像画(1947年・ダリ43歳)
ダリ劇場美術館において、先のダリの自画像の隣に展示されているのが、このピカソの肖像画。ダリとピカソは、ふたりともスペイン・カタルーニャ出身。23歳年上のピカソのことをダリはそれはそれは敬愛していて、何百通とピカソに手紙を送っていたという。ピカソもダリほど積極的ではなかったものの、ダリの才能を評価して出版社を紹介し、ダリが戦禍を逃れてアメリカへ渡る際の渡航費を負担するなどしていたそう。
ピカソへの敬愛と嫌悪が交差する作品
ダリはピカソを敬愛し続ける一方で、ピカソの作品が次第に芸術の審美性を失い醜くなっていくことに強い嫌悪感も抱いていたのだそう。そしてこのピカソの肖像画は、そんなダリの複雑な感情が入り混じった作品。
偉大な人物を示す「胸像の彫刻」でピカソを表現している点、胸部で咲いている白い花は内面の清らかさや純粋な美を表していると言われており、これらからは、ダリのピカソに対する敬愛の念を感じることができる。
そして髪の毛の一部がくねりながら喉を貫通して口から長く飛び出し、スプーンの形をした舌の先端には小さなリュート(琵琶のような弦楽器)が乗せられている。スプーンは何でもすくいとろうとするピカソの「強欲さ」を表現していると言われるているものの、ダリの絵画においてリュートは愛の(又は性的な)モチーフと言われており、このリュートからも、ピカソを批判する一方で深く敬愛し続けているというメッセージを読み取ることができる。
10.ダリのお墓
さて、最後に紹介するのは、ダリ自身が眠るお墓。ともすると通り過ぎてしまいそうな美術館地下の片隅に、ダリが眠っているお墓がある。表部分や1階以降のド派手な雰囲気とは一転、しんと静まり返っているその少し寂しげな雰囲気が、なんとなく哀愁を帯びているようにも感じる。
人々の度肝を抜き続けた数々の作品を生み出したあの奇抜なダリが、目の前にあるこんなに静かなお墓の中で眠っているのかと考えると、なんとも言い難い微妙な感情が胸に溢れてくるはず。
最愛の妻、ガーラと別々でダリは幸せ?
そして自然と湧き上がる疑問が一つ。ダリはなぜ、生涯をかけてあんなにも愛したガーラと一緒に埋葬されていないのか?その答えは、ダリがこの劇場美術館を建設中に「自らの死後はこの美術館に埋葬して欲しい」と近しい人にお願いしていたと言われているから。
でも美術館の建設中にはもちろんガーラもご存命。その後ガーラがプボル城に埋葬されることになるとは、考えてもいなかったはず。そしていざガーラを失って後、「美術館に埋葬する」というお願いを取り消すのを忘れたのか、それとも本当に、ガーラと離れ離れでもこの美術館に一人埋葬されることを望んでいたのか、その真相は分からないと言われている。
自分の美術館で眠り続けることは芸術家として幸せなことかもしれないけれども、生涯に渡って愛し続けた唯一無二の女性・ガーラと離れ離れになっていることに、ダリはどう感じているのだろうか。とにもかくにも、その姿が見えなくてもなおかつ異様な存在感を放つダリのオーラを感じに、ダリ劇場美術館を訪れた際には、ダリに挨拶をするべくこのお墓にもぜひとも立ち寄ってほしい。
その他にも見どころいっぱいの館内
上で紹介した以外にも、ダリ劇場美術館にはとにかく面白い「仕掛け」とも言えるアートがいっぱい。階段を上っている途中に上を見上げると写真のようなアートが施されていたり、エスパドリーユ風のサンダルが大量にぶら下がっていたり。
彫刻の棚、はたまた棚の彫刻とも言えるような銅像や、天井に水バケツが設置されていたり。
上の「6.メイ・ウエストの部屋」が展示されている部屋の奥の方にある小さな穴を覗いてみると、そこにはたくさんのグリーンと水で装飾された寝室があったり。
ダリお得意のフランスパンを頭に乗せたこちらの作品。フランスパンの上には、ダリが多大なる影響を受けたという画家の一人ミレーの『晩鐘』をイメージしたモチーフ。
とにかく何時間いても飽きることがない「ダリ劇場」が広がっている。限られた時間の中でどこまで発見を楽しめるか、まるでダリに試されているようだ。
ミュージアムショップでのお土産探しも楽しい
美術館といえばミュージアムショップが併設されているのがお決まり。ダリ劇場美術館も、すべての見学を終えてたどり着く場所にミュージアムショップが構えられている。
そこには今回紹介したメイ・ウエストの唇をイメージしたジュエリーや、ダリのトレードマーク、ピンと跳ね上がったカイゼル髭をあしらったアイテムの数々、ダリお気に入りモチーフである「卵」や「松葉杖」のアイテムなどが豊富に陳列されていて、お気に入りを探すのも楽しい。
何を隠そう、このダリ劇場美術館は、ダリが生まれ、ダリが晩年を過ごした場所のすぐ近く。ダリ劇場をたっぷり堪能した後、ここで何か一つ記念品を購入して家に「ダリスピリッツを持ち帰る」のもいいアイデアかもしれない。
隣接しているダリ宝石美術館も必見
ちなみにダリ劇場美術館にはダリがデザインした宝石の数々を展示している「宝石美術館」も併設されているので、ダリ劇場美術館を出たらそこに足を運ぶのも忘れずに。
この世に唯一無二の世界、ダリ劇場美術館へ行こう!
今回紹介した作品から想像してもらえる通り、語りつくせないほどの魅力を秘めているダリアートの数々。バルセロナから足を運んでじっくり見学するとなると、トータルで半日以上かかることは確か。私の場合は1つ1つの作品をじっくり鑑賞して、さらにダリ宝石美術館の鑑賞も比較的じっくり行ったので、2つの美術館へのトータルの滞在時間は約3時間半〜4程度だった。結構長い。
それでも、ダリが魂を燃やして造り上げたこの美術館は一見どころか二見、三見の価値あり。ダリの摩訶不思議な世界を、その体で、ぜひとも体感してきてほしい。
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